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千歳の約

 ――ああ、しまった。
 腹部に熱を感じたかと思うと、それは痛みに変化した。視線を落とせば、丁度腰に巻いた帯の上辺りがじっとりと湿っているのがわかる。押さえると、手のひらが赤く濡れた。
「いってぇ」
 他人事のようにぽつりと呟く。濃紺の着物が黒く変色していくのをぼんやりと眺めた。
「ち、近づくな!」
 荒い息遣いと共に吐き出された言葉に視線を上げる。刃こぼれのした懐剣を握りしめた男が、恐ろしい形相で睨みつけていた。刃先からぽたり、ぽたりと血が滴っている。あの懐剣がコゲツの腹部を切り裂いたのだ。
「あ、あんたみたいな化け物に治されるくらいなら、死んだ方がましだ!」
 化け物という男の言葉に薄く笑む。発作的な笑いが湧き上がったが、腹部の痛みにぐっと堪えた。そうだ、人間からすれば化け物に相違ない。
「なら、勝手に死ねよ」
 笑顔のまま、冷たく吐き出す。男はその言葉に激昂したように顔を赤らめ、そのまま倒れこんだ。しばらくぴくぴくと身体を痙攣させていたが、やがて動かなくなった。
 コゲツの顔から笑みが消える。
 男の身体に白いものが覆い被さった。それは全身真っ白で、人間の姿によく似ている。
 それが何なのかコゲツは知らない。知っているのは、それが人の死に際にやってくる事だけだ。コゲツはそれを〝死神〟と呼んでいる。
 男の身体から顔を上げた死神がコゲツを見た。瞳孔のない、真っ白な双眸。人間ならば白目の部分が黒いので、かろうじてどちらを向いているかだけはわかった。男とも女ともつかない、綺麗な顔をしている。綺麗すぎて、気味が悪いほどだ。顔以外は白い布に覆われており、手先足先も見えない。布の中に肉体が存在するのかどうか自体疑わしい。
「あっち行けよ。俺はそっちにゃ行かねぇ」
 死神はわずかに首を傾げ、そのまま興味を失ったように男の身体から離れ、踵を返した。ずるり、ずるりと長すぎる服の裾を引きずりながらどこかへ行ってしまった。
 途端に忘れかけていた痛みが戻ってきた。ぐっと歯を食いしばる。痛みで頭が真っ白になる。何もかもが面倒になり、コゲツは目を閉じた。
 助かる道もあったというのに、くだらない意地で死んでいく。
 ――やっぱ、放っておけばよかったよ。
 気まぐれなんて起こすんじゃなかった。半ば投げやりに地面に倒れこんで独りごちる。怒りすら湧いてこない。ただただ、むなしかった。


 びり、と肌が粟立った。世界を移動した感覚にコゲツは目を開ける。
土の上に倒れ込んだはずなのに、身体の下は土ではなく平たく削られた石に変わっていた。白に近い灰色の石畳が視界の端に見える。それと、濃厚な大気のにおいが、この場所が先程とは違う場所である事をコゲツに教えた。ぎぃ、と金属のこすれる音と共に、足音が聞こえる。
「――患者に切られたのか」
 少し高めの男の声。見上げると、見知らぬ逆さまの男の顔が目に入った。
「死にたい奴を無理やり助けようとして逆に殺されそうになるなんて、君はばかかい?」
 いつの間にか、仰向けに倒れ込んでいるコゲツの頭の上に、男がしゃがみ込んでいる。先程まで居た場所ではあまり見ない格好。
 うるせぇよ何でそんな事がわかるんだ、と言いかけたところでコゲツは腹部の痛みにうめいた。早く止血しなければ。そう思ったものの、動く事が面倒で仕方がない。
「うるさい? そうかな。とても静かに話しているつもりだけれど。確かに止血しないと大変そうだね」
 男はコゲツの腹部の傷をのぞき込んだ。刃は内臓には届いていない。この程度の傷で死にはしないが、それでも痛いものは痛い。隣に転がる薬箱に手を伸ばすのも億劫だ。
「その薬箱の中だね。えっと、どうやって開ければいいのかな。あぁこの引き出しの三番目だね」
 独り言のように語りながら、男は迷いなく正確に止血用の薬を取り出した。
「僕はそういうのがわかるたちでね。あ。何でわかるか、っていうのは僕にもわからないから訊かないでね」
 薄く笑みを浮かべ、男が首をかしげる。その動作がどうにも鼻についた。歳は、二十代の後半から三十代の半ばくらいだろうか。長めの黒髪には白いものが混ざっている。
「名前は?」
「……コゲツ」
「コゲツ。君は生きたいかい? それとも、そのまま死ぬかい?」
 にこやかに、男は問いかける。コゲツは名乗ったというのに、男は名を告げないつもりらしい。湧き上がったのは、少しの怒りと、生きる気力。
「俺様がこの程度の傷で死ぬかよ」
 嫌味をたっぷり込めて笑みを浮かべる。
 その時男が浮かべた表情の意味は、どれだけの時が過ぎても理解できなかった。ただその時のコゲツには、どこか泣き出しそうに見えた。
「そうか。なら君を迎え入れよう。ようこそ、我が屋敷へ」


 無駄に大きな屋敷だ。呆れそうになるくらいの部屋数。庭もこれでもかというほどに広い。こんな所に一人で住むのはどのような心地なのだろう。
 庭と外とを繋ぐ門に手をかけ、敷地から出ようとしたコゲツは、背後から声をかけられて振り返った。
「驚いた。もう傷が治ったのか」
「だから言っただろ。この程度の傷で死ぬかよって」
 感心しているようにも見える男に、コゲツはわざわざ着物の前を開いて傷口を見せた。少々皮膚が引きつれて見えるだけで、半日前まで出血していたとは思えない。
 しかし、いつもより異常に治りが早かったのも確かだ。
「それより、ここは〝何〟なんだ?」
「それは一体どういう意味だい?」
 男はそっと笑っている。底の見えない表情。
「ここは大気の力が濃い。濃すぎるくらいだ。堂々と精霊がその辺をうろついてやがる。人間が住むような場所じゃねぇ」
 コゲツの傷の治りが早かったのも、この場のおかげだ。身体が空気の中にほどけていくような感覚。それと同時に濃厚な大気が流れ込んでくる。
「だったら僕はこう訊くよ。コゲツ、君は一体〝何〟なんだい?」
 男の問いに、コゲツは押し黙った。
「答えられないだろう? ここはそういう場所なのさ。君こそが、一番よくわかるんじゃないかな?」
 コゲツは人間ではない。昔は人間であった頃もあったが、長い時を生きるうちに別のものへと変質してしまった。不便はないが、一体何と呼ばれるべき存在なのか、コゲツ自身にもよくわからない。
「ま、傷も治った事だしどうでもいいけどな」
「もう、行くのかい」
「ああ。世話になったな」
 二度と会う事もないだろう。背を向けて、ひらりと片手を振る。
「またね」
 男の言葉にはっと振り返った。きぃ、と高い音を立てて門が閉まる。すると庭も屋敷も消え果て、そこにはただ道が真っ直ぐに続いていた。見覚えはないが、歩き続けさえすればどこかへはたどり着く。
「……また、なんてあってたまるか」
 呟くと、コゲツはゆったりとした足取りで歩き始めた。

+   +   +



「……何で」
 コゲツは何とかそれだけ呟いた。
 人間に切られた腹部の傷も完治して、変な男と屋敷の事をやっと頭の隅に追いやる事に成功した。コゲツはコゲツの日常に戻り、のんべんだらりとした生活を楽しんでいた。
 コゲツは一カ月前に秘境とされる山に入り込み、十年に一度咲く花を探していた。その花の種が薬になるのだ。一週間前に発見し、花が枯れて種になるのをじっと観察していた。この花の種は熟すと一気にはじけ飛ぶ。しかし、熟しきる前に摘み取ってしまっては、毒にしかならない。さらに、どの種もどういうわけか全く同じタイミングではじけるので、チャンスは一度きりしかない。
 一日中、何をするでもなく花の傍に座りこみ続ける。何もしない事は、コゲツにとって何ら苦痛ではない。徐々に種が膨らみ、あとは種が飛び散る直前に摘めばそれでおしまいだった。
 ぐい、と首根っこをつかまれるような感覚に顔を上げた。びり、と肌が粟立つ。この感覚には覚えがあった。
「あ、ほんとにできた」
 ぽん、と手にしていた種が弾け飛んだ。コゲツは思わず片手で頭を抱える。この一カ月が一瞬にして台無しになった。
「何で俺はここに戻ってるんだ!」
 数ヶ月前にもう二度と行くものかと誓った屋敷にコゲツはいた。
 今回は死にそうな目には遭っていない。ここにたどり着く理由はないはずだ。コゲツはにこやかに笑っている男を睨みつけた。
「君はこの屋敷に気に入られたみたいだよ」
「はぁ? どういう事だよ」
「ここへの自由な出入りが許されたって事」
 男の言葉は理解しがたかったが、コゲツには何となくわかった。
「つまり、俺はいつでもここに呼び出されるって事か」
「そういう事にもなるのかな」
 男は軽く首をかしげる。
 この場所はとても歪んでいる。どの世界にも属しておらず、同時にどの世界とも繋がっている。
 いくつもの世界が存在している事を、長く生きる中でコゲツは知った。自力ではできないが、世界を移動する事が可能だという事もわかっている。今までも全くなかったわけではない。何度か呼び出された事はある。しかしそれは何らかの切羽詰まった状況であり、今とは訳が違う。ここにはコゲツが救うべき患者などいない。
「ふざけんな! いつでも好き勝手に呼び出されてたまるかよ!」
 コゲツの中でぱちんと何かがはじけた。
「今だってなぁ、お前に呼び出されたせいでこの一カ月がパアになっちまったじゃねぇか。どうしてくれるんだよ!」
 男は目を見開き、それから苦しそうに唇をかんだ。
「……ごめん。君の時間を無駄にしてしまったみたいだね」
 思いもよらない真剣な反応にコゲツは面食らった。そこまで責める意思はない。コゲツにとって十年は長くない。惜しいとは思うが、薬の研究は半分道楽だ。有り余った、終わりの見えない生に飽きないよう。
 なんだよ、俺が悪者みたいじゃねぇか。
「コゲツは悪くないよ。僕が一人勝手に浮かれてたんだ」
 考えを読まれ、コゲツはわずかに動揺した。
 申し訳なさそうに、苦い笑みを浮かべる。
「……ここは、静かすぎて寂しいからさ。僕はここから出られない。コゲツみたいに迷い込んでくる人がいないわけじゃないけど」
 そこから先の言葉はそっと呑み込んだ。
「コゲツは、僕の事を気持ち悪がらなかった」
 本当に、それだけなのだろう。その事が嬉しくて、この男はコゲツを呼んだ。呆れてコゲツは首の後ろを掻いた。
「願えよ」
「え?」
「ここはお前の屋敷なんだろ。だったら、主たるお前が願え。ここはこんなに精気に溢れてるんだ。そいつらが十分願いをかなえてくれるはずだ」
「でも、精霊たちは何も語らないよ。彼らの声はいつも、言葉にならない」
「それは、お前がそう思い込んでるからだ。想像しろ。名を呼べ。そして何より、信じろ」
 男は素直にこくりと頷いた。
 考えるように軽く唇を噛んでから、口を開く。
「〈火〉」
「はい、マスター」
 突然その場に人の姿をしたものが現れた。
 目の上で真っすぐに切られた前髪。短いのかと思いきや、背の中ほどまでとどく髪を首の後ろで一つに束ねている。頭のてっぺんは白に近く、毛先になるにつれ鮮やかな赤色に変化していた。まるで揺らめく炎のようだ。切れ長の双眸は青白い光を帯びている。
「すごい、すごいよコゲツ!」
 男は子どものようにはしゃぎ、コゲツに笑顔を向ける。
「〈水〉〈土〉〈風〉」
 続けざまに三つの名を唱えると、三つの人影が現れた。それぞれ違った姿をしている。
「どうしたんだよ。これで少しは寂しくねぇだろ」
「うん。気に入ったよ。とても。でもね、僕は従者じゃなくて、友達が欲しいんだ」
 にこりと笑った男に、コゲツは顔をそらした。
「……恥ずかしい奴」
「うん。うれしいな」
「心を読むな!」


 いくつかの約束事を決め、コゲツは男の元に呼び出される事を承諾した。
 コゲツはいろいろな話を男に聞かせてやり、男はそれを嬉しそうに聞いた。
「ねぇ、また聞かせてよ」
 あの話か、とぼやきながらもコゲツは語る。
「昔々。遠い昔の話だ。あるところにそれはそれは頭のいい男がいた。男は天才だった。医者になり、いろんな怪我や病気を治してみせた。もちろん、全部を助けられたわけじゃねぇ。どうしても救えない命もあった」
 男は静かに聞き入っている。
「男はある研究をしていた。それは、不死になる事。男は本当に不死の力を手に入れた。これでもっとずっと多くの人を救っていけると思った」
 そこでコゲツは一つ息をついた。
「男は人間ではなくなっていた」

+   +   +



 いつの間にか、屋敷に呼び出されるようになってから十年近い時が過ぎた。男は老ける様子を全く見せない。この場所が異質だからだろうか。それでも男は人間であった。
 多い時には月に一度、長くても半年に一度は呼び出されていたが、ここ一年ほど呼び出されていない事に気づいた。
 屋敷には月に一度ほど〝客〟が訪れるという。その客の世話をするのが男の〝仕事〟だった。初めはその客の滞在が長引いたのかと思ったが、あまりにも長すぎて気になった。
 別に何の義理もない。しかし、一度気になると意識の端にとどまり続けるようになった。
 コゲツにとって時の感覚というものはあってないようなものだ。果てをなくして、区切る事をやめてしまった。
 そうして初めて自らの意思で屋敷に足を運んだ。
「おや、コゲツ様。お久しぶりです」
 いつも玄関で出迎える男の姿はなく、現れたのは〈火〉だった。何度見ても隙のない出で立ち。
「アイツは?」
 〈火〉は何も答えない。ただ笑みを浮かべている。あの男が望んだとおりに。
 彼女の横を通り抜け、真っ直ぐに屋敷の主の元へと向かった。階段を上り、廊下を歩く。無駄に多い部屋の扉には果てがないような気さえした。歩き慣れた距離のはずがやけに長く感じる。焦りが胸の内に渦巻く。
「やぁ、コゲツ。久しぶりだね」
 寝台の上で上半身だけ起こした男はいつものように笑う。
 一目見ただけで弱っている事がわかった。コゲツはずかずかと男に詰め寄る。
「いやなとこ見られちゃったな」
「ばかか! こんな時こそ俺を呼べよ! 何遠慮してんだよ」
「君に、どうでもいいと思われるのがこわかったんだ」
「そんな事!」
 男は嬉しそうに笑う。言葉にするのが悔しくて、そこから先は呑み込んだ。それでもこの男には聞こえているのだ。
 男の下半身を覆う掛け布を剥ぎ取った。夜着の裾からのぞくつま先が灰色に変色している。触れるととても冷たい。まるで石のようだ。
「右足は、もう曲げられないんだ」
 コゲツはぎり、と奥歯を噛みしめた。どんどん身体が硬くなり、最後には石になってしまう奇病だ。それは、コゲツがどれだけの時を重ねて研究しても、いまだ治療法を見つけられていない病のひとつだった。


「ははは。だめだよ。君じゃ僕を治せない」
「……何、笑ってんだよ」
「嬉しいからさ。君がそんなに必死になってくれる事がね」
 その言葉にコゲツは唇を歪めた。彼の横たわる寝台の周りには、ありとあらゆる呪いがほどこされ、薬の飲みがらや、調合中の薬草が散らばっている。世界中からかき集めてきたものだ。
 だがどれも効果はなく、男の身体はもうほとんど動かせなくなっていた。それでも、コゲツの前では泣き言ひとつ言わない。ただ、いつものように笑っている。その事がコゲツの神経を逆撫でた。
「ここは死に近い場所だけれど、僕にとっては相性がいいみたいでね。昔よりもずいぶんと楽だよ」
 そう言って男は過去を振り返る。遠い場所を見るように。
「きっと、僕は一度死んだんだよ。一度死んで、でも生きる事に未練たらたらだったから。ここを引き継ぐ事を条件に、もう一度生きる事を許されたんだ」
 確証は何もないけれどね、と言って笑うその目はとても真剣で。コゲツは何も言えなくなった。
 屋敷から出られないのは、もうこの世のものではないから。
 薄々わかっていた。でも知らないふりをしていた。その事すらこの男はわかっていたのだろう。外の世界の話を一体どんな気持ちで聞いていたのだろう。
「諦めるのか」
「諦めはしない。受け入れるだけさ」
 明るい声で。
「人間はばかだ」
「そんな人間に振り回されているコゲツも十分にばかだと思うけどな」
 ああ言えばこう言う。だから嫌なんだ、とコゲツは一人毒突いた。この男と話していると、ばかになった気がする。まるで人間に戻ったかのような錯覚を覚えてしまう。そんな事、あるはずがないというのに。
「……ねぇ、コゲツ。前に話してくれた、不死になった男はさ。不死になってどう思ったのかな」
「さあな」
「永遠に生きるってどんな気持ちだい」
「俺が知るかよ」
 もう少しで手がかりがつかめそうだった。まだ、あの種を試していない。十年前に手に入れ損ねた、あの種を。十年前にこの庭で飛び散った種が生長し、種をつけている。ちょうど三日後に成熟するはずだ。まだ希望が潰えたわけではない。
「諦めるなよ。もう少しなんだ!」
 男の後ろで〝死神〟が揺らめいている。全身真っ白で、唯一、白目であるはずの部分だけは真っ黒だ。それをのぞけば、男とも女ともつかない、綺麗な顔をしている。コゲツが人間でなくなった時に見えるようになったもののひとつだ。男には見えていないが、そこに居る事くらいはわかっているのだろう。コゲツの動揺も伝わっているに決まっている。
 もう少し。もう少しだけ待ってくれ。まだ連れて行かないでくれ。
 男を失う事を恐れているのか、医者としての役目を果たせない事を恐れているのか、コゲツにはわからなくなってきていた。ただ、友人として最後まで見守る事よりも、医者としての役目を選んだ。そうでもしなければ、何のための命なのか、わからなくなりそうだった。
「次に来る子には優しくしてあげるんだよ」
「嫌なこった」
「僕の代わりに、この屋敷を、この屋敷に来る子達を見守って」
 それは、今後もここに来いという事か。お前が居ないのに。
「ねえ、コゲツ。僕の事、忘れないで」
「……お前なんて嫌いだ」
 コゲツは踵を返して部屋から出た。
 大きく音を立てて扉を閉めると、壁に背をつけて、ずるずるとその場に座りこんだ。抱えた膝に顔を埋める。閉じた扉の向こうから聞こえてきたすすり泣く声を、聞きたいのか、聞きたくないのかわからなくて、ただ目を閉じた。
「くそっ……」
 もう少しだけ時間をくれと、誰にでもなく祈る。握りしめた両手のやり場はどこにもない。何も助けてなどくれない事なんてよくわかっている。それでも今は他にできる事がない。
 やがてコゲツは新たな薬を作るべく立ち上がった。


 コゲツが部屋に戻ると、男は寝台の上に横たわり、静かに息絶えていた。泣いていた事を悟らせない、綺麗な顔。心が冷たくなる。誰かが死んだ後はいつもそうだ。こんな気持ちになるのが嫌で医者になったはずだった。こんな気持ちになるのが嫌で、多くの人の命を救うために不死になったはずだった。
「ばかやろう……」
 二度目の死は、彼に何をもたらしたのだろう。
 男の亡骸をそのままにして屋敷の外に出た。まだ向き合う勇気がない。
 広すぎる庭には相変わらず花が咲き乱れている。秩序に欠けるが、妙にバランスが取れていて美しい。玄関に続く階段に腰掛け、煙草をくわえた。いつもなら怒る〈水〉も今日ばかりはかまいに来ない。
 少しだけ立ち上る煙を眺め、それから庭の片隅に目を向けた。煉瓦の囲いの中に生えていたあの花の種が一斉にはじける。十年前に男が飛び散った種を拾い集め、育てていたのだ。これでもうわざわざどこかへ取りに行く必要はないね、と笑っていた。
 種を集めなければ。そして、今度こそ薬を完成させなければ。そうは思うものの身体が重い。
 今落ちた種がまた芽吹き、十年後の今日に種を散らす。二十年後も、百年後も、この場所でその命を繰り返すのだろう。
 ――永遠の命なんて、ろくなもんじゃねえよ。
 生きる事に飽きようと、疲れようと、逃げ場がない。
 玄関の扉が開く音にコゲツは振り返った。真っ白な棺が屋敷からひとりでに滑り出る。コゲツの腰ほどの高さに浮いたそれには男が収められていた。棺の後ろを四体の精霊がしずしずと付いて歩く。呆然としたまま立ち上がると、コゲツもその列の最後尾に付いた。
 棺はそのまま屋敷の裏へと回り、さらに奥へと進んでいく。まだ明るい時間だというのに、覆い茂った枝葉が日差しを遮り、ひどく薄暗い。
 日差しのこぼれる場所で棺は止まった。そこだけ切り抜かれたかのように明るい。
そこには、墓穴と墓石がご丁寧に用意されていた。
「……んだよ」
 穴の中に棺が収まると、あっというまに土に覆い隠された。もう、男の顔を見る事は二度と叶わない。
 精霊たちは表情を変えず、コゲツの後ろにじっと立っている。棺を運んだのは彼らの力ではない。今働いているのは、もっと大きな力だ。
 誰も見守っていなくとも、ひとりでに葬送され、忘れられる。誰の記憶にも残らずに。この広い世界の中で、男の事を知っているのはコゲツただひとりだった。

+   +   +



 屋敷と外の世界を区切る門が開いた。
 入ってきたのはひょろっとした、生っちろいガキだ。いいところ、十五かそこら。もしかしたら、もっと幼いかもしれない。庭に立つコゲツの前で少年は立ち止まる。
「何だ、お前は」
「お前こそ何だよ」
「私は、この屋敷の主だ」
 予想通りの答えだ。
 灰色がかった青の眼差しは鋭く冷たい。血色のない肌は死人のようだ。何を考えているのか全くつかめない無表情。
「それで、お前は?」
「俺様は……」
 一瞬だけ思案するように言葉を句切る。だが確認するまでもなく心は決まっていた。仕方がない。最後の願いを叶えると決めてしまったのだから。
 男の前では決して口にしなかった言葉を引っぱり出す。
「前の主の友人さ」
 飽きるまでは、この場所とお前の事を覚えていてやろうじゃないか。

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