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金色のキセキ

 どんどん、という扉をたたく音に、男は気だるげに立ち上がると仕方なく扉の方へとむかった。

 今は郵便配達の人間が来るような時間帯ではない。何の自慢にもならないが、男にはわざわざ家を訪ねてくるような知り合いなどいないし、割と金に困らない生活をしている彼に、借金の取立てなんかが来るはずもなかった。

「誰だ?」

 扉を押し開けるが、そこには誰の姿もない。風の音と聞き間違えたのかと、男は濃灰色の癖のある髪を掻きあげた。

 そろそろ闇を迎えようとしている世界は、赤い色に染められている。昼の陽光に暖められた空気も、次第に熱を奪われ、今では少し肌寒いほどだ。

 やはり気のせいだったのだ。そう判断した男は、扉を閉めようとした。

「いだっ」

 突然聞こえた声に、男は目を見張った。いくら見渡しても、夕暮れの舗装されていない一本道には人っ子一人いない。

「下だ、下」

 いらついたような、甲高い声。男は声にしたがって、ゆっくりと視線を下げた。

 そこには、一人の子どもが立っている。

 年は七つか八つくらいだろうか。平均よりも背の高い男と比べると、胸ほどの高さもない。どこかを転げまわったのか、泥だらけの服に、同じく汚れた顔。しかし、琥珀の双眸はきらきらと生命力に満ち溢れている。帽子に詰め込みきれなかったらしい、淡い金の髪が数本零れ落ちていた。

「あんたが、ルアリッド・エヴァーツか」

「あぁ、まぁそうだが」

 見た事もない子どもに自分の名前を言い当てられ、ルアリッドはどう反応すべきか迷った。どうやら、彼自身に用事があるらしい。一体なんだというのだろう。

「私はイアリィだ」

 腕を組み、子どもは尊大に名乗るが、全く聞き覚えのない名前だ。

「あーそうか。で、何の用なんだ、イアリィちゃん」

 面倒な事はごめんだ、とばかりにルアリッドは身をかがめる。さっさと話を聞いて帰してしまおう。ただでさえ彼は周囲からあまりいい目で見られていないのだ。夕刻に子どもと一緒だなんて、誰かに見られれば何と言いがかりをつけられる事か。

 しかし、運命とは時に思いもよらない方向へと流転するものだ。

 イアリィはびしり、と人差し指をルアリッドの鼻先に突きつける。

「認知しろっ!」

 そう言ってイアリィは、言葉をなくすルアリッドを硬直させたのだった。

 

+   +   +

 

「おい、起きろ! 朝だぞ!」

「何だよかーちゃん、休みの日くらいゆっくり寝させてくれよ~」

「だれが母ちゃんだ! いいから起きろってば」

「……っ、わーったよ。起きるって!」

 頭の上まで引き上げた掛布の上から、ぼこぼことたたかれる。寝起きの頭に近々と突き刺さる声に、ルアリッドは仕方なく体を起こした。くあぁと大きなあくびをしつつ、気だるげに柔らかな濃灰色の髪を掻きあげる。彼の体を受け止めていた古びたソファがぎしりと音を立てた。

「遅いぞ!」

 腕を組む少女を、ルアリッドは軽く見下ろした。

 肩より少し長い、ややぼさっとした癖のある淡い金髪。服はまだ汚れたままだが、泥を落とした顔は白く輝き、くりくりとした琥珀の目は相変わらず力に満ちている。昨日はただの小汚い子どもだったが、汚れを落とした今では、可愛らしい少女へと変化していた。

 見違えたものだ。まばたきながら、起きぬけの頭でぼんやりと思う。

 窓の外はすでに明るく、差し込む光がルアリッドの青灰色の双眸をさした。こんな時間に起きたのはいつぶりだろうか。

 ぐきゅぅ、とイアリィのお腹がなる。

「何だ、腹が減ったのか」

 両手でお腹を押さえるイアリィの姿に、ルアリッドは口の端を軽く引き上げて笑った。

「ちょっと待ってろ」

 うなじにかかる、伸びすぎた癖毛を適当にまとめると立ち上がり、ついでにイアリィの頭をポン、とたたいた。イアリィはたたかれた頭を不思議そうに触った。

 火にかけ、温まったフライパンに、ベーコンを放り込む。じゅーっ、という音と共にいい匂いが広がった。焼き色がついてきたあたりで、片手で器用に卵を割りいれる。白身が乳白色になったあたりで、同時に用意していたパンもいい感じに焼きあがった。

 それらを皿に取り、大人しく椅子に座っていたイアリィの前にトン、と置いた。ついでによく冷えたミルクも添える。自分用にはコーヒーをいれ、イアリィの向かい側に座った。

「食え」

「……お前は食べないのか?」

「あぁ。朝は食わねぇ派なんでな。気にするな」

 イアリィは少しだけ不満そうに口を尖らせた。しかし、この美味しそうな匂いには何者も敵わない。育ち盛りの子どもには限界だった。

「いただきます」

 イアリィは行儀よく手を合わせると、一応フォークを使ってベーコンにかぶりついた。よっぽどお腹が空いていたのだろうか。

「慌てて食うと喉につまらせるぞ」

 聞いているのかいないのか、次々と口の中をいっぱいにして、ミルクでごきゅごきゅと飲み下す。その顔は実に幸せそうだ。

 ルアリッドは軽く肩をすくめ、黒縁の眼鏡をかけると新聞を開いた。一面に載っている記事に眉を寄せる。

「またか……」

 一月ほど前から、毎日欠かさず新聞の一面を飾り続けている記事だ。

 この世界の中心には、この世界を創造した神々が住まう神殿がある。そこにはあらゆる神が存在し、人々の生活を潤してきた。

 供物をささげる事によって、人々は見返りにあらゆる恵みを与えられる。例えば天候。例えば商売。例えば運。日々の生活に役立つものから、個人的な欲望まで、供物しだいで神は何でも叶えてくれる。呪いさえ、供物につり合えば叶えてくれるのだ。

 ただし、神が納得しなければ、どんな願いも叶いはしない。それこそ、金塊の山で断った神が、その辺りで摘んだ花一輪で願いを叶えた事もある。

 どこまでも気まぐれな存在、それこそが神だ。

 神には一定の姿はないと言う。それこそ、見る物の望む姿で現れるのだと。

 ルアリッドは、記事の文面にさっと目を通した。どうやら、今日も何の進展もないようだ。

 人の願いを叶える神には色々といる。その中でも、奇跡を司る神が、行方をくらましたと言うのだ。

 そもそも、奇跡を司る神がいるということ自体、一月前の記事で知った者が多い。政府がその存在を隠していたからだ。その分失踪の発見が遅れる事となり、政府は今、必死で世界中を探し回っている。

 ルアリッドが顔をあげると、食べる手を止めたイアリィが、食い入るようにこちらを見つめている事に気がついた。

「どうした」

「……あんたにも、何か願いがあるの?」

「ん? ねぇなぁ」

「欲しい物も、何もないの!?」

 身を乗り出してくるイアリィの口の周りには、卵の気味がついたままだ。ルアリッドが机の上に置かれたティッシュの箱を指先で示すと、慌てて数枚引っつかんで口の周りをごしごしとこすった。流石は女の子、といった所だろうか。

 ルアリッドは無精ひげの生えたあごを、ざり、と撫でた。特に叶えたい願いなどない。あるのは、決して敵わない、望む事すら赦されない願いだけだ。

「お前こそあるのかよ」

「……ないよ」

 蚊のなくような声で呟いたきり、イアリィは椅子に座りなおすとじっと黙り込んだ。琥珀の眼はわずかに潤み、膝の上で両手を握りしめている。そのどこが願いのない子どもの姿だというのだろうか。

「駄目だなぁ。子どもこそ願いをもたねぇと」

 ルアリッドはタバコに手を伸ばし、燐寸(マッチ)を擦って火をつけた。紫煙がふわりと宙を漂う。だらしなく机に肘を置き、頬杖をついた。

「いいんだよ。子どもはいくら願ったってな。願うって事は、希望を持つのと同じような事だ。……けど、ホントは神に願うまでもねぇ。子どもの願いは、大人が叶えてやるべきなんだ」

「だったら、私の事認めてくれるの?」

「それとこれとは話が別だ」

 少し気を取り直したように。再び身を乗り出してきたイアリィから目をそらす。むぅ、と頬を膨らませるのを視界の端で捕らえた。

「今のやつらは、自分の手で叶えられる事すら、神任せにしちまってるんだ。そりゃ、神だって逃げ出したくなるさ」

 ゆっくりと、紫煙を吐き出す。灰皿に灰を落とした。

「……もし、あんたが神だったらどうする?」

「さぁね。あべこべに叶えちまうんじゃねぇの」

 心(ここ)が、歪んでいるからな。

 とん、とルアリッドは握りこぶしで自分の胸をたたいた。

 そうだ、歪んでいるのだ。心の奥底の、澱んだ場所が。腐臭を放ちながら、どんどん腐っている。仕舞いには、ルアリッドの心も全て食らい尽くしてしまうだろう。

 しかし、いまだ彼に正気を保たせさせているものは、強すぎる理性だった。

 ふと話すべき事を思い出し、灰皿に煙草を押し付けた。イアリィに向き直る。

「それでよ、お前」

「お前じゃない、イアリィだ」

「じゃぁイアリィ。一晩よく考えたんだが」

「おっさんは寝こけてただけだろ」

「おっさん言うな。そりゃもういい年だけどさぁ。ルアリッドと呼べ」

 昨日の夜と同じような会話。話がそれてしまった事に気づき、ルアリッドは一つ咳払いをした。

「で、あれだ。あー、お前……イアリィが俺のガキだって話だけどよ」

 いきなり訪ねてきたこの子どもに認知しろと迫られたのは、つい昨日の夕方のことだ。

 彼女が言うには、母親が死んだらしく、ここへやってきたらしい。他にいくあてもないと言う彼女を放り出すことも出来ず、あまり騒いで近所の誰かに見られても面倒なので、取り敢えず一晩泊める事にしたのだった。

「やっぱ、俺のガキじゃねぇよ」

 彼女の外見から見て、十より上という事はないだろう。だから、絶対にありえない。

「なぁ、いい加減ホントの事言えよ」

「……パパはパパだもん」

「……あのなぁ、世の中いい大人ばっかりじゃないんだぞ」

「知ってるよ、それくらい!」

 だが、わかってはいないだろう。

 続けかけた言葉を、しかしルアリッドは飲み込んだ。イアリィにだって、ここに来ざるを得ないような理由があるのだ。こんな、得体の知れない、見ず知らずの男に頼らなければならないような理由が。

 ルアリッドは静かに息を吐き出した。

 彼は決して根っからの善人ではないが、だからといってわざわざ悪人になるようなタイプでもない。出来れば何事にも関わらずに過ごしたい、というのが本音だった。

 ――まったく、こんな俺にもまだ良心なんてもんがあったなんてよ。

 もしくは、過去を思い出してしまったのかもしれない。多くの物を失ってきた過去を。

「……でもまぁ、イアリィが俺のガキかはともかく。ここにはしばらく置いてやるよ」

 ぱぁっとイアリィは笑顔を浮かべた。

「そうと決まりゃ、今日は買出しだな」

「何で?」

「何で、って。お前、その格好のままずっと過ごすつもりか?」

 昨日と同じ、汚れた服。彼女はこれ一着しか持っていないという。それどころか、ルアリッドの家に辿り着いた時には、何の荷物も持っていなかった。

「他にも色々いるだろ。三十後半のおじさんの家には、女の子に必要なものなんて何もないんだからな」

 立ち上がりながら言うと、イアリィはよくわからない顔をした。多分、嬉しいのだろうが、戸惑っているようでもある。どうやらあまり細かい感情表現には慣れていないらしい。

「あー、金ならぜんぜん心配するな。俺けっこーお金持ちだから」

 机の反対側まで歩き、イアリィの頭をぽんとたたく。

「……ありがとう」

 やっとの事で見つけ出された言葉に、ルアリッドはおう、と笑った。

 

 よほど嬉しいのか、イアリィはスキップをしながら先へ先へと一本道を進んでいく。

 昨日と同じように薄汚れた帽子を深くかぶり、髪を中に詰め込んでいる。そうしていると、男の子のようにも見えた。

「転ぶぞ」

「だいじょーぶだよ」

 片手で帽子を押さえながらくるりと振り返り、イアリィははたと足を止めた。ポケットに手を突っ込んだまま歩いていたルアリッドは、どうした、と聞きかけて口をつぐむ。

 周囲でひそひそと交わされる視線、言葉。ルアリッドにとってはいつものことでしかなかったが、イアリィにとっては不思議な光景でしかない。

 帽子を抑え、じっとあたりを見渡す。イアリィと目が合った者は、慌てて視線をそらした。

「……みんな、ルアリッドを見てる」

「ま、俺はこの辺じゃ有名人だからな」

 嘘ではない。まぁ、有名といってもいい話ではないので、胸を張るわけにはいかないのだが。

あの男(・・・)が十歳ほどの子どもを連れ歩いているのだ。目立たないわけがない。

 この噂はすぐに広まることだろう。今更かもしれないが、下手に人攫いにでもされる前に、手を打っておいたほうがよさそうだ。

 ルアリッドは庭の花に水をやっていた、五十を過ぎたくらいの女性に目をつけた。白髪の混じった髪を、丁寧に一つに結い上げている。この辺りでは顔役のような存在になっている女性だ。

「おはようございます、ニニーさん」

「! あ、あぁ、おはよう」

 声をかけられたことに驚いたように、ニニーは目を丸々と開いた。それから、イアリィに視線を移す。

「この子の事なんですが、遠い親戚の子でして、しばらく家で預かることになったんです」

「はじめまして、イアリィです。ルアリッドさんの所でお世話になることになりました。よろしくお願いします」

 イアリィはルアリッドの隣にちょこんと並んで頭を下げた。

 親戚ということにしようと言い出したのはもちろんルアリッドだ。それが本当かどうかはともかく、娘です、なんて紹介できるわけがない。

「おや、まぁ……」

 ニニーは大きく目を見開いて、二人の姿を上から下へと眺めた。品定めでもするかのようなニニーの視線に、思わず目を閉じたくなるのをルアリッドはそっとこらえた。

「あの、いきなりきて、ごめんなさい。……私、ママが死んじゃって、どうすればいいのかわからなくって。ママが昔話していたルアリッドさんの事を思い出して、私が勝手に押しかけたんです。ルアリッドさんは私をかわいそうに思って、しばらくうちに、置いてくれるって……」

 両手で顔を覆い、イアリィは肩を震わせた。

「あぁ、いや、別に責めてるわけじゃないんだよ。ただ、意外でね……。そうかい」

 ニニーは如雨露(じょうろ)を地面に置いて、前掛けで両手をぬぐった。少し身をかがめて、イアリィと視線を合わせる。

「はじめまして、イアリィちゃん。あたしはニニーだよ。この男とは昔からの知り合いでね。悪い奴じゃぁないから、安心していいからね」

「うん。ルアリッドはいい人だよ。今もね、これからお買い物にいくの」

「そうかい。それはよかったね」

 元気になったイアリィに、ニニーはふわりと微笑んだ。そうすると、どこかきつそうな印象が和らいで見える。

 それから背筋をしゃんと伸ばし、ルアリッドを見上げた。

「……何か困った事があったら、声をかけておくれ。子育てってものは、あんたが考えてるよりも大変なんだからね。あたしは四人の子どもを育て上げたんだ。あんたよりは役に立つさ」

 ルアリッドはニニーの言葉に軽く目を見張り、それからゆっくりと微笑んだ。心が少し昔に戻ったかのようだ。

 こんな風に人に言葉をかけられたのは、一体何年ぶりだろうか。

「はい、ありがとうございます」

 

 数十分歩いて、一番近くの町に辿り着いた。色々な店に入り、必要な物を買い込んでいく。全ての買い物を終えると、ルアリッドの両手はイアリィの荷物でふさがった。

 そろそろ帰ろうかと、道を引き返していた時の事。

 突然びくり、とイアリィは肩を震わせた。そのまま、隠れるようにしてルアリッドの服の裾を掴んだ。

「どうした」

 両手がふさがっているので、視線だけでイアリィを見下ろす。

 イアリィの視線の先に居るのは、そろいの濃紺に銀糸の刺繍が施された制服に身を包んだ男達だ。

 逃げ出した、奇跡を司る神を探すために結成された特殊部隊だが、その動向は荒く、これまで通過してきた町々で被害報告が次々とあげられている。本来は長ったらしい正式名称があるのだが、〈神狩り〉という俗称の方が広く浸透していた。神の威光を笠に着た政府の行いは、時に目に余るものだが、逆らおうとする者はほとんどいない。自分に災厄が巡ってこないように祈るだけの者がほとんどだ。

「……行くぞ」

 声を低く落とし、ルアリッドは〈神狩り〉に背をむけた。そのまま、出来るだけ足早に町を後にした。

 

 少し早い夕飯を終え、ルアリッドとイアリィは木製の机をはさみ、向かい合って座っていた。ルアリッドはコーヒーを、イアリィはホットミルクをすする。

「でもさ、どうしてみんなルアリッドの事を見てたの?」

「んー。まぁ色々な」

 煙草に火をつけ、ゆっくりと吸い込む。イアリィは眉根を寄せた。

「……煙草は体に悪いよ」

「知ってる」

「じゃぁ、何で吸うんだ?」

 イアリィの問いに、ルアリッドはゆっくりと瞬いた。

「……死にたいから、かな」

 自嘲じみた微笑を浮かべる。

 まるで毒を体の中に取り込んでいるような感覚。蓄積した毒は、いつしか体を蝕みつくし、殺してくれるのだろう。そんな妄執が頭から離れずにいる。

 視線を落とすと、今にも泣き出してしまいそうなイアリィが視界に入り、ルアリッドはぽかんと口を開けた。その拍子に落としそうになった煙草をあわてて掴み取り、灰皿に放り込んだ。

「……死ぬなんて、言わないで」

「悪い……」

 さすがに今の発言はうかつすぎたと反省する。手を伸ばし、ぐしゃぐしゃとあせた金髪をなでた。

 なでられた頭に手をやり、イアリィは小さく笑った。じっと、ルアリッドの手を見つめる。

「ルアリッドは、結婚してるの?」

「イアリィは質問が多いな」

 ルアリッドは左手をかざした。薬指にはめられた、無骨な手にはあまり似合わない細身の銀の指輪が、ランプの柔らかな光をはじいて鈍くきらめく。この世界で、結婚している印としてよく用いられているものだ。

「短かったけどな」

 新しい煙草に火をつけた。独特の匂いが広がる。苦いばかりの、どこか悲しい……。

 あまりにも近くで見つめすぎたイアリィは咳き込んだ。

「悪い」

 灰皿に煙草を押し付ける。まぁ、子どもの体には悪いわけだし。これから一緒に暮らすのならば、控えなければならないだろう。

「十年くらい前にな。俺を置いて行っちまった」

「……その人の事、愛してた?」

「あぁ。……今でも、愛してるさ」

 浮かべられた微笑があまりにも悲しくて、イアリィはどうすればいいのかわからなくなった。

「……イアリィこそ、ホントなのか」

「何」

「母親が、って話。どうにも作り話とは思えなくてな」

 イアリィがニニーに話した内容は、昨日ルアリッドが聞いた内容とほぼ同じである。しかし、結局細かい話までは聞けていなかった。

 いじわる、とイアリィは頬をふくらませた。当然のように、話したいと思える内容ではないだろう。ルアリッドも、無理に聞きだしたいわけではない。

「じゃぁいいや。ひとつだけ、答えてくれ」

 しっかりと、目を合わせる。

「何で俺のところだったんだ?」

「……ママが、言ったの。ここへ行きなさい、って。ここに行けば、何とかなるかもしれないから、って」

「……イアリィの母親って、誰なんだ」

 ルアリッドには、自分のところに行け、なんて言うような人間に心当たりはない。決して近づくなというのならばまだわかるのだが。

 イアリィは何度も瞬き、唇をかみ締めた。

「……リリト」

「リリト? ……まさか、リリト・アンヘルか!?」

 こくりと頷く。

 懐かしい名前だ。

 ルアリッドは木製の硬い椅子に深く座り込み、背もたれに体重を預けた。ゆっくりと、息を吐き出す。

 たしか、最後に会ったのは五、六年前か。記憶にあるのは陽だまりのような笑顔と、自信に満ちて強く輝く双眸。それと心配そうに歪められた表情……。

 名前と共に記憶が溢れ出す。そこで、はたとルアリッドは思い至った。

「でもあいつ、神殿に仕えてたんじゃなかったっけ」

「そうだよ」

 神殿に仕える者は一生を独身のまま過ごす。そこでは神にすべてを捧げることが求められるからだ。彼らが一度神殿に入るとその後人間扱いされることはなく、当然結婚は許されない。

「結婚、してたのか」

 しかし、イアリィは首を横に振った。

「どういうことだ?」

 聞いてから後悔した。少し考えれば分かることだ。

「…………ホントの、子じゃないから」

 なるほど、と頷いてしまう。彼女ならば、見知らぬ子どもを拾って育てることくらいしそうだ。養子を取る事は認められている。

 しかし、俯くイアリィの姿にルアリッドは気づいた。

「……リリトは、死んだのか」

 責めも同情も、何も感じられない声音。ただ事実を確認するだけの言葉。

 一度だけ、かすかに頷いた。

 ルアリッドは立ち上がり、イアリィの隣に立つと、手を伸ばした。ぎゅっと目をつぶったイアリィの頭の上に手を置き、掻き回した。びっくりしたように、ぐしゃぐしゃになった髪を押さえて、琥珀の目を丸々と開いた。

「……あいつはいい母親だったか」

「うん」

「そうか。そりゃよかった」

「うん……」

 ぼろぼろと、イアリィの両目から涙が溢れ出した。しゃくりあげながら、ルアリッドの襟をつかむ。大きな手が背中を優しくたたくと、もう止まらなかった。ルアリッドは戸惑って何度かまばたくと、ゆっくりとイアリィを抱き寄せた。

 泣き疲れて眠ってしまったイアリィをどうするべきかぼんやりと考える。逃がすものかとばかりに握り締められた服は手放してもらえそうにない。今日はこのまま隣で寝るしかなさそうだ。

 寝室まで抱きかかえて歩く。完全に眠りについた子どもは思いのほか重たい。少しふらつきながらも何とか寝台まで辿り着けた。肩まで掛布を引き上げてやる。自分には胸の辺りまでしかかからないが、まぁ冷えはしないし大丈夫だろう。

 明かりを消し、少し早いが目を閉じた。子どもの体は温かく、ルアリッドはいつになく穏やかに眠りについた。

 

+   +   +

 

 壁に掛けたカレンダーを睨み、ルアリッドは低い唸り声を上げた。

「どうかしたのか?」

 イアリィの声も聞こえていないらしく、何かをぶつぶつと呟いている。

 じっと見つめていると、突然ルアリッドは振り返った。驚いてイアリィは肩を震わせた。

「イアリィ」

「な、なに!?」

「お前、明日はニニーさんに面倒見てもらってくれ。あの人も、頼めば聞いてくれるだろうし……」

「まてよ! どういう事!?」

 押し付けるようなルアリッドの言葉に、イアリィは取り乱した声をあげた。しかし、ルアリッドの目はどこか宙をさまよっている。

「一日だけだ。夜には多分、帰ってこれる」

「何で!」

「これからもここにいたいなら言うことを聞け!」

 叫んでから、ルアリッドはしまったと思った。琥珀の双眸が、力なく揺れている。

「怒鳴って、悪い」

 ぐしゃりと前髪を掻きあげる。イアリィはだらりとたらした両手をぎゅっと握りしめた。

「……わかった。明日は、ニニーさんにお世話になる」

「ありがとな」

 ぎゅっとイアリィを抱き寄せる腕は微かに震えていた。イアリィも、ルアリッドにぎゅっとしがみつく。

「……明日は、何かあるのか」

「……嫌な、客が来るんだ。お前には会わせたくない」

 かすれた声。答えを期待していなかった為、返答があった事に驚いた。

 深く息を吐き出し、ルアリッドはイアリィを抱き寄せる腕をゆるめた。

「ニニーさんに頼んでくる。ちょっと、留守番しといてくれ」

 軽く頭に手を乗せられる。顔を上げる事が出来ず、イアリィはあまり綺麗とは言えない床を見つめ続けた。

 扉の閉まる音に、イアリィはその場にへたり込んだ。震える己の肩をぎゅっと抱きしめる。

どろりとした深い闇が、ルアリッドを包み込んでいた。

 

「今日一日、よろしくお願いします」

 礼儀正しく頭を下げたイアリィに、ニニーは頷いた。

「急に無理を言ってすみません」

「あんたの為じゃないよ。ただ、こんな子が巻き込まれたら可哀想だろう」

 彼女は、この辺りでルアリッドの過去の真相を知っている数少ない人物だ。何もかもを知った上で引き受けてくれた。

「とにかく、イアリィちゃんは私に任せな。大丈夫だ。……だから、あんたもしっかりやるんだよ」

「……はい」

 家へと帰るルアリッドの後姿を、イアリィはじっと見送った。その背中はどこか頼りない。いつも見上げているものとは、全く違う。

「さぁ、中へお入り。……大丈夫だよ、ルアリッドはちゃんと約束を守る男さ」

 ニニーに背中を押され、イアリィはそっとルアリッドの背中から視線をそらした。

 

「何もなくってごめんよ。今日は外に出してあげられないからね」

 困ったように言うニニーに、イアリィは首を横に振った。

「普段は何をしているんだい?」

「何もしてない事が多いよ。ルアリッドは、ボーっとしている事が多いし」

「まったく、あの男は。ちゃんとかまってやらないと駄目じゃないか」

 ニニーは額を押さえて溜息をついた。

「何にしろ。自分の家だと思ってゆっくりしていってちょうだいよ。そこの棚にある本なら出してもいいからね。ところで、文字は読めるのかね?」

「ううん」

「そうかい。だったら、ルアリッドに教えてもらうといいよ。もっとも、腕が落ちていなきゃだけどね」

 イアリィは首をかしげた。

「おや、知らないのかい。ルアリッドは昔学校の教師をしていたんだよ」

「知らなかった。だって、ルアリッドはあんまり自分の事話してくれないから……」

 まったくあの男は、とニニーは小さく呟いた。

 イアリィはずっと黙っていたが、決意してニニーを見上げた。

「……ニニーさん。どうして、ルアリッドはみんなに嫌われてるの?」

 イアリィの真っ直ぐな言葉に、ニニーは一度息を詰まらせた。言葉を探すように視線を彷徨わせ、息を吐き出した。

「……別にみんながみんな嫌ってるわけじゃないさ。ただ、あいつは異端者だからね」

「異端者?」

 耳慣れない言葉に、イアリィは首をかしげた。

「そりゃ、同情しないわけでもないんだけど。一度貼られたレッテルってものは、なかなかはがせないものさ。誰よりもルアリッドが一番、しがみついているんだからね。まったく手に負えないよ」

 どこか遠くを見つめるニニーの双眸に、イアリィは口を挟む事が出来ずにいた。

 イアリィの知らない、過去のルアリッドの姿。少しだけ、思いをはせてみる。

「とにかく。あたしの口からは言えないよ。ホントに聞きたきゃ本人に訊きなさい。話せるなら話してくれるだろうよ」

「話してくれなかったら?」

「その時は、聞かないほうがいいってことだ」

 それっきり、ニニーはその事に触れようとしなかった。

 

 

 すでに日は沈んでしまい、ぬくもりも闇に奪われた。ソファに座って編み物をしていたニニーは、扉をたたく音に立ち上がった。

「遅くなりました」

「ホントだよ。イアリィちゃんなら、待ちくたびれて寝ちまったよ」

「すみません……」

 首の後ろ辺りに手をやり、力なくうなだれるルアリッドを、ニニーはびしっと睨み付けた。

「何だい、そんな生気の抜けたような顔して。もっとしゃきっと出来ないのかい!」

 普段から、どちらかといえばあまり顔色がいいとはいえないルアリッドだが、今は本当にひどいものだ。朝よりも確実にやつれて見える。

「わかってるのかい。あんたは今イアリィちゃんの親代わりなんだろ。あんたがしっかりしないでどうするんだい。イアリィちゃんに心配かけるんじゃないよ」

 たたみかけるようなニニーの言葉に、ルアリッドは後退った。しかし、言われていることは尤もなので反論も出来ない。

「すみません……」

「そうじゃないんだけどねぇ。まったく。まぁ、お入りよ」

 促されるままに家の中に入り、ソファで丸まって眠るイアリィを見下ろした。あどけない寝顔を眺めると、凝った心がゆるんで溶けてしまいそうになる。そっとわきの下と膝の裏に腕を差込み、イアリィの細い体を抱き上げた。

「今日一日、ありがとうございました」

「ちょいとお待ちよ」

 玄関でルアリッドを呼び止めると、ニニーは一度奥の部屋に戻っていった。

「これももっていきな」

 そう言ってニニーが差し出したのは、布製の手提げの袋だ。のぞいてみると、中には小ぶりの鍋が入っている。

「どうせ、昼も食べてないんだろう。死にそうな顔してるよ。あんたがそうだと、イアリィちゃんが不安がるだろう」

 イアリィを抱えた腕に無理矢理持たせると、扉の外に追い出す。鍋はまだ温かかった。

「明日朝9時に、イアリィちゃんと一緒に鍋を返しに来な。それと、ちゃんとその髭剃って来るんだよ」

「あ、りがとう、ございます」

 ルアリッドは頭を下げた。

「そうだ、一つだけ聞かせておくれ」

「何です」

「あんたにとって、イアリィちゃんはどんな存在なんだい?」

 ニニーの問いに、ルアリッドは腕に抱きかかえたイアリィを見下ろした。

「その子は、救いになってるかい?」

「はい……」

 ルアリッドが頷いたのを確認し、ニニーはそうかい、とつぶやいた。

 

+   +   +

 

「よし、時間通りに来たね」

 翌朝。ルアリッドとイアリィがそろってきたのを見て、ニニーは頷いた。

「ちゃんと髭も剃ってさっぱりしたじゃないか。さぁ、これを着るんだよ」

 一方的にまくし立てると二人に何かを手渡した。

 広げてみると、胸から膝の辺りまでを覆う前掛けだ。

「これは?」

「一日中家の中にいるのも、そろそろ飽きただろう。たまには外で体を動かさないと、腐っちまうよ」

 体もおつむもね。そう言って半ば背伸びをしながらルアリッドの額を小突いた。まるで小さな子どもにするみたいに。

「丁度収穫期なんだけど、人手が足りなくてね。息子たちは町に出ちまっててね。年老いた母親よりも、自分の仕事が大事ときた。あたしもそろそろいい年だからねぇ。猫の手でも引きこもりの手でも借りたいんだよ。どうせ、予定なんてないんだろう」

 畳み掛けるような言葉に、ルアリッドは苦笑を浮かべた。ずっと外部との接触を避けてきた彼に、予定などあるはずがない。

「イアリィはどうする?」

「何するの?」

「野菜の収穫の手伝いだ」

「やってみる!」

 イアリィはにこりと笑った。この純粋な笑顔に逆らえる者が一体どれほどいるだろうか。明日は筋肉痛決定だなぁ、とルアリッドは胸の内で苦く笑った。でも、彼女のこんな笑顔を見れるのならば、それでもいいかもしれない。

「こっちにおいで、イアリィちゃん。つけ方を教えてあげよう」

「うん!」

 ニニーの手招きに、イアリィは駆け寄った。どうやら昨日のうちに随分と懐いたようだ。嬉しいような、少し寂しいような、微妙な気持ちにさせられる。

 ルアリッドは大人しく前掛けをつけ、シャツの袖をまくった。

 

「どうだい。体を動かすのは気持ちいいだろう」

「そーですね」

 早々にギブアップしたルアリッドは、畑の端のほうに座り込んでいた。泥だらけになって、野菜と格闘するイアリィの姿を見守る。

 長らくまともに運動していなかった体にはきつかった。明日は筋肉痛確定だ。いや、明日で引くだろうか。こんなところで己の衰えを感じ、ルアリッドは苦く笑った。

「気は紛れたかい?」

「ええ」

「そりゃよかった」

 途中で投げ出したルアリッドとは違い、一仕事終えたらしいニニーは、ルアリッドの隣に立っていた。ぱん、と両手についた土を払う。

「少しは生き返ったようだね」

 ルアリッドはうつむいて、後ろ頭を掻いた。

「俺、そんなに死んでました?」

「あぁ。まるで抜け殻のようだったよ。ただ動いてるだけで、魂がどっかに抜け出したんじゃないかってほどにね。ろくに外にでもしないし、すれ違ったって顔を上げもしない。……まぁ、それも仕方がなかったのかもしれないけどねぇ」

 あんな事があったのだから。ニニーの呟きに、ルアリッドは強く目をつぶった。

 押し寄せてくるものに、押しつぶされそうになる。どれだけの時間が過ぎようと、この心が癒される事はない。はずだった。イアリィに出会うまでは。

 そんなルアリッドの内情を見透かしてか、ニニーはルアリッドを見下ろした。

「もう、死ぬんじゃないよ。心も、体も。考えるだけでも駄目だ。あんたはこれからあの子を育てなきゃならないんだからね。……何度も親に死なれたんじゃ辛いだろう」

「……そーですね」

 どうしようもない闇の中で、イアリィが笑う。途端に、締め付けるような痛みが和らいでいった。

 ぱらぱらと、殻のようなものが剥がれていく感覚。さんさんと射す日差しがまぶしい。肌に光がしみこんでいくかのようだ。

「……遠い親戚の子、っていうのは嘘です」

「そうかい」

「産みの親は分かりませんが、母親はリリトだそうです」

「! ……そうかい」

 ニニーは大きく目を見開き、ゆっくりと口元に笑みを浮かべた。声が震えている。多分、見上げればその双眸は潤んでいるのだろう。

「あの、お転婆がね。……リリトがあんたを選んだなら、間違いじゃないんだろうよ。その選択を、絶対裏切るんじゃないよ」

「はい」

 ルアリッドは、しっかりと頷いた。己の中に刻み付けるかのように。

 

+   +   +

 

「ルアリッドは昔先生だったって、本当?」

「何だ、ニニーさんに聞いたのか」

 健康的な生活を、とニニーに昨日嫌というほど言われたので、筋肉痛に耐えながらルアリッドは朝食のパンを口に運んでいた。

「文字が読めないって言ったら、ルアリッドに教えてもらえって」

「あーいいぞ、別に。そうか、読めなかったのか」

「うん。……だって、必要なかったから」

 そうか、と頷いて最後の一切れを口の中に放り込んだ。コーヒーで流し込む。

「どうして、やめちゃったんだ?」

 素直なイアリィの質問に、ルアリッドは少しだけ遠くを眺めた。

「んー。正確に言うと、クビになったんだけどな」

「どうして?」

 ルアリッドは、静かに目を伏せた。コーヒーとは違った苦味が口の中に広がる。

「神を否定したんだ」

 そこには何の罪悪感もなく、ありのままの現実を告げるかのような厳かな響きがあった。底のない闇のようであり、無のようでもあった。

「そ、れは……」

 イアリィはそっと息を呑んだ。

 神を否定することは、とんでもない重罪に当たる。それは同時にこの世界のあり方まで否定することに繋がるからだ。己の生き方を否定されていい思いをする者はいない。その末路はよくて追放、最悪の場合死刑となる。

「――この話はおしまいだ。お前も今の話は忘れろ」

「だめっ」

 ぎゅっとルアリッドの服の裾を握りしめた。

「やめとけ、やめとけ。俺の話は聞くだけで罪だぞ」

「それでもいいっ! だれにも話さないから! ……私、もっと、ルアリッドのこと知りたい」

「この辺の奴らにききゃ、ぺらぺら話してくれんだろ」

「でもっ。ルアリッドの口から聞きたい。ホントの、こと……」

 すがりつくかのような必死な声に、ルアリッドはがしがしと頭を掻いた。こうも泣きそうな顔をされてはかなわない。

「……子守歌にもならねぇぞ。むしろ悪夢だ」

「うん」

 それでもいい、ルアリッドの事を知りたい。繰り返された言葉に、ルアリッドは折れた。

 

 新しくコーヒーをいれ直して座ると、ルアリッドは語り始めた。

「お前の知ってるリリトがどうかは知らないが、俺の知ってるあいつは、お転婆で何時だって泥だらけだった。喧嘩でも何でも、負けん気が強くてな。男の子泣かせてはしょっちゅう怒られてる奴だった」

 今でもその姿はありありと思い出せる。あまりにも鮮烈に、彼女は生きていた。

「俺はその頃教師で、リリトは生徒の一人だった。そんで、時々リリトを迎えに来ていたリリトの姉に惚れたんだ。リーシャっていってな。それは綺麗な女で、思わずその場で口説いてた。その頃は俺もまだ若かったしな。リーシャは俺よりも七つ年下で、村の巫女だった」

 地方にも神意を伝えるため、要所に巫女を置くことが定められている。その巫女は二十歳未満の生娘である事が定められていた。

「リーシャが二十になって、頷いてくれたときにはどうしようもなく嬉しかった。俺は、俺達は幸せだった」

 それまで明るかったルアリッドの声が、急に暗くなる。イアリィはそっと息を呑んだ。

「でも、リーシャは死んだ」

 吐き出された言葉はあまりにも重く、ぎしりと空気が軋んだような気がした。沢山の言葉が呑み込まれている。

「人の死ってのは、あっけないもんだな。あれだけ、神に尽くしてきたのに、幸せになった途端、全てが奪われた。それ以来、俺は神を信じられなくなったんだ」

 白い死装束をまとった彼女の姿を目にした瞬間、頭の中が真っ白になった。彼女の冷たくなった体を抱きかかえ、神を否定する言葉を吐き出して。その後の事はあまり覚えていない。

「当然、異端者の存在は赦されない。精神異常者として隔離された。さすがにあの頃はきつかったな……」

 政府には〈思想局〉という部署が存在し、神の存在を疑い、否定した者に思想の修正を行う事が出来る。気がついた時には、〈思想局〉の者達に囲まれていた。

「どんな言葉を吐きかけられようと、どんな目に遭わされようと、俺は神を信じる事が出来なかった。こんな奴らにいいように利用されている事が、余計に気にくわなかった。だから、初めの頃は正面から反抗していたんだけどな。

そのうち、気づいたんだよ。正常でいる事がばかばかしい事だってな。〈思想局〉の考え方が変わる事は絶対にないんだからな。だったら、俺が変わればいい。変わった振りをすればいい。正気だからこそ、俺は俺を偽る事にした。自分が異常であることを自覚してりゃ、普通の人を装うことだって出来るからな。心を入れ替えて、神を信じ、政府の権力を信じたように思い込ませたら後は簡単さ。それから一月後には、月に一度監査が入る事を条件に解放された。それが、大体十年前の話な」

 だが、一度ついてしまった泥は払えない。いくらきれいに洗い流そうと、泥の跡は消えない。再び仕事に就こうにも、彼を受け入れる場所などなかった。

「俺の場合は運のいいことに親が資産家だったからな。二度と顔を見せない代わりに、生きながらえることを赦された」

 格好悪いだろ、と笑う。それからは、出来るだけ人と顔を合わせずに生きてきた。こんな自分と関わると、ろくな事にはならない。

「リリトが言ったんだ。自分が神殿に行って、神様に会ってくるってな」

 神様がどんな人達なのか、ちゃんと見極めてくるから。だから、自暴自棄にならないで。

 そう、十以上も年の離れたルアリッドに言った。それから神殿に仕えるための勉強を必死でして、試験に合格し、本当に神殿に仕える事になった。その時には誰もが驚いたものだ。

「神は連れてこなかったけど、リリトはイアリィを連れて来てくれた。それだけでも、リリトが神殿に行った甲斐はあったんだよな。その事だけは、神に感謝してもいいかもしれねぇ」

 ルアリッドの言葉に、イアリィはそうっと鼻をすすった。

「何せ、俺にこんな風に幸せな気持ちを思い出させてくれたんだからな」

 イアリィにティッシュを差し出して、ルアリッドは穏やかに笑った。

 

+   +   +

 

 だが、幸せな日々は長くは続かない。

 今日はニニーに夕食に招待されていて、今は彼女の家に向かう途中だった。

 突然、イアリィが立ち止まった。

「どうした、イアリィ」

 真っ青な顔。ルアリッドはゆっくりと顔を上げ、そこにいた男の姿に顔をゆがめた。

「お前……」

 毎月見ている顔だ。嫌でも覚えてしまう。〈思想局〉の担当官の男と、その後ろに従う、見慣れない〈神狩り〉の制服を着た人物が一人。

 伸ばした手でイアリィを引き寄せ、背中にかばった。

「何ですか。今月はまだのはずでしょう」

「今回はお前に用はない。用があるのはその子どもだ」

 冷たい眼差し。まるで物でも見ているかのような視線。

「お前と共に見慣れぬ子どもがいるという通報が、善良な民から入ってな。この間はずいぶんと上手く隠してくれたものだ」

「イアリィに、何の用です」

 ルアリッドの言葉に、男は意外そうに眉根を寄せた。

「何だ。お前は気づいていないのか、その子どもの正体に」

「やめろ! 言うな!」

 イアリィは必死に叫ぶ。だが、男はイアリィの声など聞いていない。

「神だよ」

 ガシャン、と何かの砕ける音がした。心の砕ける音だ。

「は?」

 ルアリッドは言われた事が理解出来なかった。イアリィが、神だって? そんな馬鹿な。

 しかし、うつむくイアリィの表情は真剣そのものだった。

 神。思いつくのはただ一人しかいない。行方をくらましているという、奇跡を司る神だ。

「……本当なのか、イアリィ」

 ルアリッドが問うと、唇を引き結び、今にも泣き出しそうな顔で頷いた。

 全ての糸が繋がったような気がした。

 リリトはイアリィを神殿から逃がしたのだろう。そして、その途中で命を落としたのだ。この、〈神狩り〉達の手によって。そして、政府の行いは、神の名をもって全て赦される。

「さぁ、神を渡してもらおうか。お前には必要のない存在だろう」

 言いながら、男は一歩、また一歩と近付いてくる。

 冷たい汗が噴き出した。視界がぐるりと歪む。考え方までは変えられなかったとはいえ、恐怖はしっかりと刻まれている。顔を見ただけで吐き気がこみ上げてくるほどだ。しかし、今ここで膝をつくわけにはいかない。

鈍い音と共に、後ろに立っていた〈神狩り〉の体が前のめりに倒れた。上手い具合に入ったのか、倒れたまま動かない。驚いた男が振り返る。

「何をぼさっとしてるんだい、ルアリッド! 早く行くんだよ!」

 叫んだのは、手にした箒で〈神狩り〉の一人を殴り倒したニニーだった。二人を待って窓の外を眺めている時に、見慣れぬ制服を着た者達を見かけ、不安に駆られてそっと後をつけていたのだ。

「ニニー、さん」

「あんたはイアリィちゃんの親だろう! 親だったら子どもの事を護らなくてどうするんだい!」

 ニニーの叫びが、それまで軋むようにして動けなかったルアリッドを突き動かした。イアリィの手を掴むと、そのまま走り出す。

「おい貴様、自分のした事がわかっているのか!!」

「さてね。親が子どもを守って何が悪いってんだい。老婆が孫を思って何が悪いってんだい。この老いぼれの命一つで救われるっていうのなら、あたしは後悔しないよ」

 箒を片手にニニーは、ニニー・アンヘルはしゃんと背筋を伸ばし、男の前に立ちふさがった。

 

 長く延びる一本道をひた走る。行くあても、逃げ切れる保証もない。それでも、立ち止まる事は出来なかった。

「っ、もういいよ、ルアリッド! やっぱり私、あいつらと一緒に行くから!」

「ふざけんな!」

 ルアリッドは腹の底から叫んだ。驚いた鳥達がばさばさと飛び立つ。

「イアリィは誰が何と言おうと俺の娘だ。あんな奴らに大事な娘渡せるかよっ!」

 この言葉にはかけらの嘘もない。今では本当の娘のように感じている。

「っ。もういいの。わがまま言った私が悪いんだから!」

「そんなの関係ねぇ。俺はもう何も奪われたくねぇんだよ。神だろうと何だろうと知ったことか!」

「でもっ。私の所為でリリトは死んだの! ルアリッドだってっ!」

 そこから先は言葉にならず、涙となって溢れた。

 初めて大切だと思えた人。笑い方を教えてくれた人。神だということなど関係なく接してくれた。明るくて、元気で、賢くて、悪戯好きで。妹のように、娘のように扱ってくれた。どんどん人間という存在に惹かれていった。でも、リリトは死んでしまった。イアリィが、逃げ出すことを望んでしまったから。ただの人間の娘になりたいと、願ってしまったから。

「私と一緒にいると、みんな不幸になっちゃうの!」

「嘘だ」

 途切れそうになる呼吸の中、ルアリッドは精一杯叫んだ。

「俺は、イアリィに出逢えて幸せになった。お前のおかげで俺は生き返ることが出来た。もう一度、生きてみようと思えた。不幸なわけがあるかよ!」

 そうだ、生きようと、もう一度生きてみようと思えた。人として、生を全うしようと。

「リリトだってな、お前に出会えて幸せだったに決まってんだよ!」

 きっと彼女の事だ。最後まで笑っていたのだろう。最愛の娘を想いながら、陽光を思わせる、あの笑顔で。

「神殿に行こう」

「どうしてっ」

「もうイアリィが追われずに済むよう、話をつけるんだ」

 逃げた所で捕まるのは時間の問題だ。〈神狩り〉に慈悲はない。ならば、直に神と対峙した方が、まだマシな気がした。

 突然、イアリィが立ち止まった。すでに体力の限界に近かったルアリッドは、何とか速度を落として立ち止まる。膝に手をつき、荒く息を吐き出した。

「どうした、イアリィ」

「……ルアリッドは、私を信じてくれる? ずっと、正体を隠していた私を」

「あぁ、信じるよ。どんな事だろうと、俺はイアリィを信じる」

 ルアリッドの青灰色の双眸を見つめ、イアリィは頷いた。

「あの人が言っていたように、私は確かに奇跡を司る神だよ。神殿から出てからは、少しずつ力が衰えているみたいだけど……。今の私に叶えられる奇跡は、多分一つだけ。そして、その奇跡を起こすきっかけは、供物でも何でもない、強い願いなの。決して揺らがない願いだけが、奇跡を呼び寄せる事が出来る」

 そう語る姿は、子どもの姿には似合わなくて。あぁ本当に彼女は人を超えた存在であるのだ、とルアリッドはぼんやりと思った。

「誰かの強い願いが、私を呼び寄せるの。だから、願ってルアリッド。神殿に行きたいって、強く」

「……けど、それだったら、お前が、お前自身の幸せを願えばいいじゃねぇか」

 だがイアリィは悲しげに首を横に振った。出会った頃よりも濃くなったような気がする、あせた金の髪がふわりと揺れた。

「私の願いは誰にも届かない」

 今にも泣き出しそうなイアリィの声に、ルアリッドは息をつまらせた。

「駄目なんだ。自分の願いを叶えることは出来ないの」

 こらえてきたものが堰を切って溢れ出す。

「リリトは、私が助かることを願った。だから、リリトのために私はその願いをかなえるしかなかったの! 私を、助けてくれる人の元へ、って……」

 涙声になりながら、訴える。

「リリトだって、自分が助かることを願えばよかったのに! そうすればっ、私の力で助けられたかもしれないのに! ……リリトは最後まで私のことばかり願ってたの。……ばかみたい」

「馬鹿なもんか」

 ぼろぼろと泣き出したイアリィをルアリッドは強く抱きしめた。

「親が子どもの幸せを願って何が悪い。俺が願う。お前がもう二度と誰の願いをかなえずにすむように。自分の幸せを願えるように、俺が願ってやる」

 イアリィの小さな手が、ぎゅっとルアリッドを抱き締める。

 声がする。〈思想局〉の男と、〈神狩り〉の声だ。何だか訳のわからないことを叫んでいる。違う、単純に頭が言葉を理解する事を放棄しただけだ。

 ルアリッドはただ願った。神殿に辿り着く事だけを。

 〈思想局〉の男の手がルアリッドに触れそうになった。その瞬間、二人を中心にして強く外向きに風が吹いた。こらえきれずに顔を覆った男達が腕を下ろすと、そこには誰の姿もなかった。

 

 何故神は人の願いを叶えなければならないのだろう。

 何故神は人の為に存在していなければならないのだろう。

 自身の願いすら叶えられないのに、何故人に縛られていなくてはならないのだろう。

 

+   +   +

 

「あなたが〈奇跡の神〉ね」

 その少女はふわりと笑った。まだわずかに幼さを残す、優しい面立ち。普段来る特徴のない男達とは、全然違う。

「ずいぶん可愛らしいのね。想像していたのと全然違うから、びっくりしたわ。だって、こんな所にずっと閉じ込められていたのでしょう。てっきり、こわーい感じなのかと思っていたわ。でもよかった。金の髪も、金の眼もとても綺麗ね。まるでお人形さんのようだわ」

 絶え間なくさえずる小鳥のように、少女はよく喋る。

「私は今日から貴方のお世話役になった、リリト・アンヘルっていうの。これからよろしくね。私のことは、姉のように、母のように思ってくれていいのよ?」

 母とは、姉とは何かと聞くと、リリトは少しだけ顔をゆがめた。伸ばされた指が触れる。細くて、簡単に壊れてしまいそうで……とても、温かい。

「……あなたに名前を、つけてもいいかしら」

《なまえ?》

「そうよ。人間はね、大切なものに名前をつけるの。だから、全ての人間は、誰かからもらった名前を持っているのよ。誰かに、愛されている印として。それに、〈奇跡の神〉なんて味気ないじゃない?」

 愛。じんわりと、何かが染み渡ってくる。〈大神〉が言っていた、神には理解出来ない、神以外の生物の持つ情の名だ。

「そうね……イアリィ、っていう名前はどうかしら」

《……イアリィ。それが、私のなまえ……》

「そう。気に入ってくれたかしら」

 こくりと頷くと、リリトはまた笑った。その笑顔は、知識として知っている太陽の光によく似ていた。

 

+   +   +

 

固い床の感触に、ルアリッドはそれまで硬く閉じていた目を開けた。

なめらかな壁も、磨かれた床も、そびえる柱も、何もかもが白い。どうやらここは、神殿の内部のようだ。

「イアリィ」

「ここにいるよ」

 いつの間にかイアリィの服装が替わっていた。部屋と同じように、真っ白なワンピースに身を包んでいる。髪の色は、出会った頃よりもさらに薄い金色になっていた。双眸は力強い金色だ。この姿が、神としてのイアリィの姿なのだろう。

 神に序列はないが、王のような、支配者のようなモノは存在している。その存在は〈大神〉と呼ばれ、この世界の頂点とされている。だが、実際のところは政府にその名をいいように利用されているだけの存在でしかないと、ルアリッドは思っていた。

 六角形のだだっ広い空間で、各頂点にはどこまで続いているとも知れない柱がそびえている。その中心、二メートルくらいの高さに、直径五メートルを超えるなまり玉のような奇妙な光沢を帯びた球体が、ぽかりと浮かんでいた。

 イアリィは球体の傍で跪いた。

「これが……」

 球体はぐるりと回転すると、表面に人間の顔のようなモノが現れた。イアリィに似た、銀に近い金の髪がゆるく波打つ。感情を写さない、鮮やかすぎる金色の双眸。人間の顔にしては綺麗に整いすぎていて、気味が悪いほどだ。

《そなたが、ルアリッド・エヴァーツか》

 男とも女とも、子どもとも大人とも老人とも取りがたい声。まるで水の中で話しているかのようにくぐもっている。水面へともがく泡沫のはじける音を聞いているかのようだ。

《この姿は仮の姿の一つだ。ヒトというものは、自分たちと同じ姿をしていないモノと話すことに、いつまで経っても慣れないらしいのでな》

 ルアリッドの内情を見抜いたような言葉に、この存在が本当に人知を越えたものである事を痛感した。

「〈大神〉」

《わかっている。全てミていた。さて、〈奇跡の神〉よ。一体そなたをどうしようか》

 イアリィは立ち上がり、真っ直ぐに〈大神〉を見上げた。その双眸には、欠片の迷いもない。

「私はもう、ここには戻りたくない。私は、私自身の幸せを、大切な人の幸せを願えるようになりたいんだ」

 それは神であることをやめるということだ。

〈大神〉はだまってイアリィの姿を見下ろした。それから、ルアリッドに視線を移した。

《さて、ルアリッド・エヴァーツよ》

「俺……私、ですか」

《そう気負う必要はない。そなたはこの〈奇跡の神〉が例えどのような姿であろうとも、受け入れる気概はあるか?》

「はい」

 しっかりと頷く。ないわけがない。そうでなければ、一体何の為にここまで来たのだ。

《では、そなたたちヒトが、神よりも遥かに先に老いて死ぬとしても、その思いは変わらぬか》

 ドクリと心臓が跳ねる。残されるモノの痛みならば知っている。

 例え一瞬でもいいから幸せでいて欲しい、などという思いは人間のエゴでしかない。

 それでも――

「ここでは、イアリィは笑えない。イアリィがいなくなったら、俺も多分笑えない」

 きっと、もう二度と。

「俺は確実にイアリィよりも先に死ぬ。けど。それでも俺は、生きている限り、イアリィの傍にいたい。最後までイアリィの、娘の幸せを願っていたいんだ」

 僅かに球体が沈む。静かに、頷いたような気がした。

《……わかった。その言葉、決して違えるなよ》

 巨大な球体が揺れたかと思うと、〈大神〉の顔はどろりと消えた。それとほぼ同時に、球体が光を帯びる。

「かはっ……」

 イアリィは体をくの字に折り曲げて、胸のあたりをかきむしった。イアリィの胸に光が集まり、糸のようになって溢れ出す。

「おい、何をして!」

《練り直しているだけだ。神のまま人界に堕ろすわけにはいかないからな。また、利用されてはかなわぬ。……どうやら、ヒトの子の姿で固定されているようだ。これならば、容易い……》

 光は球体の中に吸い込まれていった。それと共に、イアリィの髪の色が、じわじわと濃くなっていく。

「イアリィ……?」

 ゆっくりと、目を開ける。金のまつげに縁取られた双眸が琥珀に輝く。薄紅の唇が、ゆっくりとほころんだ。

「ルアリッド。……ううん、パパ」

「イアリィ!!」

 駆けだしたイアリィを、ルアリッドはがっしりと抱きとめた。二人は抱き会い、誰にもはばかることなく涙を流した。

《たくさんの想いによって、本来ならば多様である姿が、ヒトの姿で固定されていたようだ。そなたの知っている姿と、ほとんど変わっていないとは思うが》

 再び球体の表面に顔があらわれる。ルアリッドとイアリィは感謝の気持ちを込めて〈大神〉を見上げた。

《もう、その子はただのヒトだ。もう何の特別な力も持ってはいない。奇跡を叶える力も、何もない。ただ、脆弱なだけだ》

「十分だ。イアリィの願いは、俺が叶える」

《そうか……》

 相変わらず、男とも女とも分からない、感情も感じさせない音。だが、わずかに笑っているような気もした。

 神という存在は、案外悪いものではないのかもしれない。悪意も、善意もなく、気まぐれに願いを叶えるだけの存在。だがそこには、確かに情も存在しているのかもしれなかった。それが人間とは違うから、わかりにくいだけなのだ。

《さて、新しい神を生み出さなくては……》

 球体の中で〈大神〉は体を揺らした。

 奇跡を起こす力は、今〈大神〉と一つになった。元々全ての神はこの〈大神〉が自分の力を分けて生み出した存在だった。その事を知るものは、〈大神〉のみだが。

《しかし、その前にそなたらの願いを一つ叶えてやろう。ヒトで言うならば、わが娘を愛してくれた礼だ》

 降り立ったのは二つの光。それは次第に人の姿を取り始めた。

 描き出された姿に、ルアリッドとイアリィは大きく目を見開いた。

 女の姿をかたどった二人の姿は、よく似ていた。

「リリト!」

 イアリィは駆け出し、光で象られたリリトに抱きつこうとした。しかし突き抜けてしまい、慌てて数歩下がった。

「イアリィ。ちゃんとルアリッドの所にたどり着けたのね」

「うんっ。ごめんね、リリト。私のせいで」

「ねぇ、聞いて頂戴イアリィ、私の大切な娘。私は貴方に出会えて本当に幸せだったわ。後悔なんて、全然してないんだから。だから」

 笑って頂戴。

 リリトは言って微笑んだ。いつも向けてくれたものと同じ笑顔を。その事が嬉しくて、イアリィは泣き出しそうになりながら笑った。

「私もね、リリトに出会えてよかった。ルアリッドに出会えて、よかった。リリトはいないけど、すごく、幸せなんだ」

「そう。だったらよかったわ」

 リリトはぎゅっと腕の中にイアリィを包み込んだ。直に触れる事は出来ないけれど、心を伝える事は出来る。

「私の人生にも、ちゃんと意味があったのね」

 呟いて、リリトはそっと視線をずらし、近くに立つ姉夫婦を眺めた。

 ルアリッドを見下ろし、リーシャは微笑んだ。あの頃と、まったく変わらない優しさで。

「久しぶりですね、ルアリッド」

「あぁ……」

「〈大神〉様がね、心から仕えてくれた事に対するせめてもの計らいだといって、魂のまま置いてくださっていたの。私が時々貴方の傍にいた事、知らないでしょう?」

 リーシャは腕を伸ばし、ルアリッドの頬に触れた。質量はないので触れた感覚はない。しかし、その部分だけ温かいような気がした。

 本来、死んだ全ての生物の魂は一度真っ白に漂白され、再び別の生物の肉体の中で生まれ変わる。そして神ですら、死者を生き返らせる事は出来ない。それでも、若くして置いて来てしまった夫の事を思うリーシャの願いを何とか叶えられないかと、〈大神〉は出来得る手を尽くしたのだ。神々を束ねる役目の〈大神〉が、ただの人の子のために。それほどまでに、リーシャの思いは強く、清らかだったのだ。ただ、愛しい人に声を伝えたいと。

「置いて行ってしまって、ごめんなさい。苦しい思いをさせてしまいましたね」

「そ、んな事は……」

 いくつもいくつも言葉が溢れ出し、胸がつぶれそうになる。あえぐように口を開閉し、ルアリッドは結局言葉を見つけられずに押し黙った。

 苦しかった、辛かった。この世界が信じられなくて、彼女を奪われた事が憎くて。だから、神に八つ当たりした。でも、余計に苦しくなるばかりで。

 死んでしまえばいいと思った。でも死ねなかった。ここで死んだら、彼女に二度と顔向けが出来ないと思ったから。

 それでも、生きるのは辛くて、苦しくて。だから、心だけ殺した。何も感じなければいいと、全て、ながされるままに生きて、死んでいた。

 でも――。

「選んだのですね」

「あぁ……」

 声を、絞り出す。それだけの事が、ひどく辛い。

「俺は、イアリィと生きていく」

「よかった……ちゃんと、生きてくれるのですね」

 リーシャの爪先が、床に触れる。目線が、ルアリッドよりも下になった。

「いつまでも、待っています。だから、早く来すぎてはダメですよ。……素敵な父親になってくださいね」

「あぁ。長く、待たせる」

 十年前と変わらない美しさを保ったリーシャが笑いかける。その微笑みは、妹のリリトとよく似ていた。そして、イアリィとも。

「愛してる、リーシャ」

「私も愛してるわ、ルアリッド」

 腰の辺りに腕を回して、姿を崩してしまわないように優しく抱き寄せ、唇を重ね合わせる。胸の奥の闇が、温かい光によってそっと追い出されていった。

 再び光が収束する。ルアリッドとイアリィはあまりのまぶしさに目を閉じた。

 視力が復活した頃には、すでに彼女たちの姿はなかった。

 少しの喪失感と、心が満たされる感覚に、二人はしばらく言葉もなく立ち尽くした。

《そうだ。政府の手の者ならば、少し脅しをかけて散らしておいた。……もう少し、われらもヒトの世界に関わったほうがよさそうだな》

 ぽつりとした〈大神〉の言葉で二人は我に返った。

《さて、そろそろそなた達を返そう。ヒトが来ると厄介なのでな》

 球体がくるりと回転する。イアリィが声を発する暇もなかった。

 気が付くと、周りの景色が一変していた。見慣れた、いつもの長い一本道だ。思っていたよりも時間が経っていたらしく、藍色の空の端が徐々に光を帯び始めている。夜明けだ。

 まるで、長い夢でもみていたかのような気がする。それほどまでに、衝撃的な展開の連続だった。

「〈大神〉にお礼、言いそこねた……」

 イアリィはぽつりと呟き、ルアリッドの手をぎゅっと握りしめた。小さな手が与えるじんわりとした熱に、少しずつ現実感が戻ってくる。

「大丈夫。イアリィの声なら、どこからでも届くさ」

「そうかな」

「そうに決まってる。だって、イアリィのもう一人の父親なんだからな」

 包み込むようにしてイアリィの手を握り返すと、安堵したように頷いた。

「イアリィちゃん! ルアリッド!」

 ニニーが駆け寄ってくる。いつもは綺麗にひっつめられている髪が乱れてはいたが、怪我はないようだ。ルアリッドはほっと息をついた。

「怪我は、怪我はないだろうね」

「大丈夫ですよ。だから、落ち着いてください」

「あぁよかったよ。もう一度あえて、よかった……」

 その場で膝をつくと、ぎゅっと、イアリィを力一杯抱きしめた。イアリィもニニーを抱きしめる。

「心配かけてごめんなさい。……ただいま、おばあちゃん」

 イアリィの言葉に、ニニーは大きく目を見開いた。

「どうして、それを知って……」

「だって、笑い方がそっくりだもん」

「……そうかい」

 ニニーは穏やかに笑った。彼女達と、そっくりな笑顔。

「お帰り、イアリィ。お帰り、ルアリッド」

「はい。ただいま、帰りました」

 ただいま、だなんて言ったのはいつぶりだろうか。ルアリッドはそっと息を吸った。

「……ニニーさん。俺、ちゃんと働こうと思います。そりゃ、今から仕事探すのは大変でしょうけど、このまま腐って終わりたくない」

 ルアリッドのその言葉を待っていたと言わんばかりに、ニニーは力強く彼の肩を叩いた。

「遅いんだよ、あんたは」

 

 それから三人でニニーの家に行き、温め直した料理を食べた。三人で囲む食卓は少しだけ寂しくて、でも満たされていた。

 食事の後でニニーの取り出したアルバムを眺め、失った人達の事を語り合う。傷口を洗い流すような感覚に、少しずつ、彼らを縛っていた様々なものがほどけていった。

 寝台の中、イアリィの温もりを感じながら目を閉じる。こうして体温を感じる事が出来るのは、そう長くはないだろう。成長すれば、手を繋ぐ事もなくなるだろう。頭を撫でる事も、なくなるかもしれない。

 それでも、出来る限り一緒にいて、沢山思い出を作ろう。彼女が人間の娘になって、本当によかったと思えるように。後悔させる事などないように。

 リーシャがいた頃のような幸せを感じながら、ルアリッドは眠りについた。

 ――さぁ、明日は一体何をしようか。

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